(千葉県香取市扇島885・長泉寺) 昭和19年5月15日戦死 享年30歳 『青春放浪』に「私がこれまでに知った一番頭のいい、しかも純真な友達であった」と評している。恐らく、生涯一番の親友とも思ってらしたのかもしれない。 川端康成氏のノーベル賞受賞時、「高安君が生きていたら、彼が先に受賞していただろう」という趣旨のことを井上靖氏はある人に語ったそうである。(そのある人ご本人の証言を私八扇は直接聞いている。何のノーベル賞を想定してそのように言われたか解らないが、その思いとは、「高安君が生きていれば、どんな賞でも受けるだけの、世界的な業績を成し遂げていたに違いない、それを思うとその夭逝が本当に残念で悲しい」ということではないだろうか) ★(兄が)「生きて還って来られたら何か素晴らしい仕事が完成していただろう。」・・・・・ご実弟、高安宗顕さん ★「若し高安敬義君、生きてあれば、日本の高安と言はれる人物に大成した事は疑うべくもないことだったと信じて疑はないところです。日本は惜しい人物を失った―と言うべきでしょう。」・・・・・旧制千葉中学時代のご親友、小林敏明さん (『追惜・井上靖』天城湯ヶ島町ふるさと叢書 第六集・天城湯ヶ島町発行・平成9年参照) 詩 『石庭 ―亡き高安敬義君に―』 詩 『友』 『青春放浪』 『美しきものとの出会い』 『井上靖 わが一期一会』 『亡き友・高安敬義〈忘れえぬ人々十二〉』 などの作品で高安敬義さんのことに言及、また実名やモデルらしき登場人物をしばしば作品に描いている。 また『あすなろ物語』の「漲ろう水の面より」の、戦死した「金子」が「出立の日に遺して行った」短冊の俳句「この夏は血も汗もただに弁えず」は、実際に高安敬義さんが戦地に赴く時、京都大学の恩師、久松真一先生に認めていった「此の夏や汗も血も只に弁えず」が基になっているようである。 墓誌 故敬義ハ大正三年三月十二日十五代高安宗悦ノ二男トシテ生マレ新嶋小學校千葉中學校水戸高等學校ヲ経テ京都帝國大學哲學科ヲ卒業シ研究中昭和十八年十一月五日大東亞戰争二應召各地ニ轉戰昭和十九年五月十五日支那河南省信陽縣長台關ニ於テ戰死ス 行年 三十二歳 父 誌 |
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