(伊豆市・湯ヶ島・西平) 『夏草冬濤』で描写される「洪作」の先祖墓「玄俊、玄秋、玄道、玄英」のモデル。作品中「洪作」は、初代「玄俊」の墓を見つけられなかった。 井上家の先祖は、江戸時代18世紀中頃、四国よりこの地に流れてきた母子連れが始まりとの伝承があるようである。『私の自己形成史』に「好色と落魄と失踪が暗示されている」としている。 墓石は後列6基、前列3基の合計9基ある。 (後列向って右より) A.華光院理圓妙了大姉 (初代・玄春政信の母) B.法鷲院玄春日成居士 (初代・玄春政信) C.合掌院妙向日就大姉 (初代・玄春政信の妻) D.妙法就山童子 (二代・俊逹政直と毛舞の子・早世) E.妙法杣覚孩子 (三代・元俊政明と八重の子・早世) F.妙法穉覚童子 (三代・元俊政明と八重の子・早世) (前列向って右より) G.高臺院玄俊日榮居士 (三代・元俊政明)〔養嗣子〕〔政直の甥〕 順逹院妙操日芳大姉 (三代・元俊政明の妻・八重〔政直・毛舞の子〕) H.明練院春逹日相居士 (二代・俊逹政直) 相春院妙練日逹大姉 (二代・俊逹政直の妻・毛舞) I.智孝院玄逹日進居士 (四代・玄逹常次郎)〔養嗣子〕〔出自不明〕 この玄逹さんは若くして亡くなり、三代未亡人・八重さんは、この亡き玄逹さんを分家扱いにし、息子の潔さんに「本家」を継がせるかたち(五代目)にしたそうである。そして、この再興可能な絶家状態の玄逹常次郎さんの「分家」を最終的に、井上潔さんは、やゑさんを当主として復活再興させた。その流れが、井上靖氏へと繋がっていく。(『若き日の井上靖研究』藤澤全著〔三省堂〕参照) この井上玄逹さんは、四国の「金比羅さんを守った金光院の末裔で、医家で行方不明になった玄達ではないであろうか、年代の頃が似ているとも言われていて目下研究中」らしい。(『井上靖全集』〔新潮社〕第三巻月報参照) |
|
[返信] |